100話 「マイペース二人」 ◆aalWSIpMG2
船酔いのような眩暈に襲われていた。ゆらゆらとたゆたう視界の中、空を見ている。
一方の空が茜色に、もう一方の空は闇に染まっていた。
何度目かのひどい吐き気が込みあげてきて、地に伏せたまま吐瀉する。出てくるのはもう胃液だけだった。
切迫した息と一緒に吸い込んでむせ、しばらく咳きこむ。
――もう……やめてくれ。
咳きこみながら、ぼやける頭でただそれだけを繰り返していた。
だが、それで纏わりつく負の感情が薄れるわけでもなければ、体がそれを取り込むのをやめるわけでもなかった。
「やめろ!」
うつ伏せから仰け反るように半身を起し、纏わりつく負の感情を振り払うように腕を振るったが、そのとたんに視野が回転する。
すっと目の前が暗くなって、コックピットの床に顔を突っ込んだ。負の感情は変わらず纏わりついている。
――どうすれば……楽になる。
深い脱力を感じて、もう起き上がることすらできなかった。
――死なら、一瞬で……。
弱った心が逃げ場を求め、一つの考えが浮上してくる。
突然、負の感情とは別の感情に触れたのはそのときだった。
「……ブレン、お前なのか?」
(…………)
「そうか……ありがとう……」
どこか優しく温かいその感情は、ラキの苦しみを和らげていった。
――死なら、一瞬で……。
あれから何度もラキの思考はそこで立ち止まった。
そのたびにブレンの心に励まされ、頭から払い落し、ただじっとうずくまって耐え続けた。
短いような、長いような時間が流れ、気づくと纏わりついている負の感情は薄れていた。
眩暈と吐き気をこらえて起きあがる。震える手を壁についてよろよろとコックピットから這い出てみる。すでにあたりは暗かった。
体は未だに負の感情を取り込み続けていたが、放送直後に比べればわずかなものだった。
それでも自分の体が他人の悲しみを喰らい続けているという自己嫌悪は胸の中に重く沈んで、どうしても拭うことができなかった。
「ブレン、これから私はどうすればいい?」
大きく見上げて話しかける。
(…………)
「私か?私は……ジョシュアがここで出会った人――アイビスという女と会ってみたい。
会ってどうするというわけでもない。ただ会ってみたいんだ。
ブレンはどうしたい?」
(…………)
「そうか……。なら、そうしよう」
出てきたときに比べると幾分マシな足取りでコックピットに戻る。ムッと鼻を突く臭いが立ち込めていた。
「ブレン、すまない。お前も私もひどいかっこうだ」
思わず謝罪の言葉が口をついて出た。
(…………)
「心配しなくてもしっかりと洗う。まずはH-8に向かうぞ」
(…………)
「仕方ないだろう。一番近い補給ポイントがそこなんだ。
そこまで行ったら洗う。だから心配するな。大丈夫だ」
砂地に大きなくぼみを残して蒼い巨人は浮き上がり、飛び立つ。
その姿はやがて暗い空の闇へと消えていった。
波一つない穏やかな水面に小さな波紋が生じる。その中央でぽつんと一人の女性が顔を出していた。濡れた蒼い髪が艶やかだった。
――何も見えないな。
夜空を見上げて彼女は思う、この空はかつて地球を閉ざしたものによく似ていると。
突如、女は何かに呼ばれたような仕草を見せる。
暗い水面に映ったさらに暗い影が彼女の周囲にあった。水の中に何か大きなものが潜んでいる。
大きく息を吸い込んで肺を酸素で満たし、彼女は水の中に潜る。伸びてきた大きな影にしがみつくと彼女は影の中に吸い込まれ消えていった。
水面がせり上がり、女の髪と同じ色の巨人が姿を現し、やがてふわりと浮きあがって水面から離れる。
彼女たちの目的地の小島はもうすぐそこだった。
「小生の名はギム・ギンガナム。名乗りを上げい!」
突然通信が飛んできて目を丸くする。移動をブレンに任せて、濡れた体を拭いているときだった。水で洗い流したためコックピットのそこここはまだ濡れている。
「グラキエースだ。ジョシュアを知らないか?」
急いでパイロットスーツを着込みつつ通信を返す。同時に一番知りたい情報を訪ねた。
「知らぬ。聞きたいことはそれだけか?ならば、いざ尋常に勝負ッ!!」
「いや、他にも聞きたいことはある」
「ここより先は問答無用!さあ、漢に言葉は無用!!拳で語り合おうではないかああぁぁぁぁあああああ!!」
前方の小島から闘争心を燃やしつつ、一機の白い機体が飛び出してきた。
瞬く間に二者の距離は狭まり、剛腕がブレンに差し迫る。シャイニングの拳がブレンの顔面に吸い込まれ、
「私は女だ。断る」
空をきった。
――この移動法は……。
見知った移動法に思わず笑いが込み上げてくるのをギンガナムは感じた。
振り返り、小島に転移した敵機の姿を確認する。
よくよく注意してみてみると、その姿は奴が乗っていた機体にどことなく似ていた。そして、それ以上に奴のツレの機体に酷似している。
――少なからず奴に関係があるやもしれぬ。
「ふっ……ふははははははは……!!面白い。面白いぞ!
グラキエースとやら、お前の機体はやつらの機体によく似ている」
「やつら?」
「そう。似ているのだよ、アイビス=ブレンにな!!」
そうして彼は語り始める。
どん、と低い地響きのような音がして、立ち並ぶビル群の通りに面したガラスというガラスが白く濁った。
一拍置いて同様の地響きが再び轟き、砕け散ったガラスの破片が光を撒いたように舞い散るなか、白い隻腕の巨人はアスファルトを踏み砕いて着地する。
その巨人の中で肩幅いっぱいになびかせた長髪の一部を頭頂部で結い、胸に日の丸の輝く全身黒タイツを纏った男は(特に意味なく)仁王立ちしていた。
その男の名はギム=ギンガナムという。
「誰も居らんではないか!!!」
計器を睨めつけて本日二度目のセリフを叫ぶ。
彼は一人の参加者を追いかけて移動中であった。
しかし、その相手が残していった目印――巨大な足跡もA-1の端で光の壁に遮られて打ち止めである。
壁の向こうは地図を見る限り草原地帯。足跡を追える可能性は低かった。
「紫雲統夜、逃したか」
しかし、そもそもただ対戦相手を求めるだけならば、あの場から動く必要はなかった。
あの場には遠方とはいえ二機の戦闘機が視認できていたのだ。
だが、大勝負を終えたばかりの彼は「味が軽すぎる」とか言って、それに大した興味も抱かずに、市街地に残された足跡を追い始めた。
その欲張った結果が現在である。
とにもかくにも一度壁の向こうを確認しておこうと、再び動き出そうとする。
『アー、アー、ただいまマイクのテスト中ですの。…こほん…最初の定時連絡の……』
その矢先に、突然幼い少女の声が響いた。
「ふはははははっ!面白い!!」
放送が過ぎ去り、静寂を取り戻したビル街に笑い声が響きわたる。
放送に連なった名の中にアイビス=ブレンの名はなかった。それはすなわち、あの状態から見事生き延びて見せたことを意味している。
それがたまらなく愉快で、再戦が待ち遠しい。
先の戦闘の五分の攻防、前二戦の大味な戦闘も良かったが、経験と技術に裏打ちされた緻密なアイビスの動きは驚嘆に値するものだった。
しかし、最後の最後で納得のいかない戦いでもあった。
突如乱入者に邪魔をされ、逃げ切られたこともそうだが、互いに最後の一手を放とうとしたあのとき、アイビスとやらが銃口に湛えていた光が霧散したことが解せなかった。
ギム=ギンガナムが望んだのはあのような幕切れではない。
真っ向からシャイニングフィンガーであの光に立ち向かい、捻じ伏せる――それこそが彼が望んだ結末だったのだ。
その後の動きもこれが同じ機体かと思えるほど拍子抜けのする動きだった。そして油断した結果、自分は腕を斬りおとされた。
つまりは何かと納得のいかない決着だったということだ。
――だが、決着は決着ではなかった。
再戦を思い浮かべるだけで血がたぎり、肌が泡立つ。口元が知らずとほころんだ。
「ふははははっ!見つけてやる!見つけてやるぞ、アイビス=ブレン!
小生から逃げ切れると思うな!!」
堪えようともしない笑い声が再び響き渡る。そうやってひとしきり笑い飛ばしたあと、ゆっくりと視線を動かし、計器の一部が目に入った。
エネルギーゲージがレッドゾーンだということにそこで初めて気づく。
「輜重の確保は戦の基本であったな」
ガサガサと古臭い地図を取り出してきて、紙面に目を泳がせる。F-7・G-4・H-8の三か所の補給ポイントが書き記されていた。
「H-8が近いな……」
呟くと進路を北西に定め、移動を再開する。二つ目の光りの壁を超えたとき、足場が突然消えてシャイニングは水中へと落下した。
「……というわけだ」
「なるほど。それで補給を終えたころに私が現れたというわけだな」
「いかにも。悪いが、アイビス=ブレンとの再戦の予行演習とさせてもらうぞ!!」
おそらくアイビス=ブレンと同じ特性を持っているであろう機体を前にして、嫌がおうにでもギンガナムのテンションはあがる。
それに呼応するように冷却装置を展開させ、シャイニングはスーパーモードを発動させた。
両者の間に緊迫した空気が流れた次の瞬間、
「いやだ。私は逃げる」
長話の間にちゃっかり補給を完了していたブレンは掻き消え、ギンガナムは孤島に一人取り残された。
鬣を彷彿とさせる冷却装置が落胆したように虚しく閉じた。
G-8水中に突如蒼い巨人が姿を現した。
――アイビス・ブレン。
巨人の中でラキはその言葉を反芻する。
今、自分が乗っている機体はネリー・ブレンという。ネリーさんのブレンパワードだからネリー・ブレンだ。
ならば、アイビス・ブレンとは、おそらくアイビスのブレンパワードのことだろう。同じブレンパワードだ。ギンガナムが似ているといったのも頷ける。
だが、アイビス・ブレンを探せばアイビスに会えるのかというと、そういうわけでもなさそうだった。
ギンガナムの話ぶりだとアイビス・ブレンの乗り手は男だ。しかし、ジョシュアの話に出てきたアイビスは女だった。
つまりはジョシュアとガナドゥールのように愛機と引き離されてしまったということなのだろう。
「ブレン、アイビス・ブレンというブレンパワードかアイビス本人を知っているか?」
(…………)
「そうか……」
(…………)
「いや、こっちこそすまない」
ひとまず思考をそこで中断する。
巨人は目の前のスイッチに手を伸ばし、二度目の補給を開始した。
【ギム・ギンガナム 搭乗機体:シャイニングガンダム(機動武闘伝Gガンダム)
パイロット状態:テンション急降下(気力80)
機体状態:右腕肘から先消失、胸部装甲にヒビ、全身に軽度の損傷
現在位置:H-8小島
第一行動方針:倒すに値する武人を探す
第二行動方針:アイビス=ブレンを探し出して再戦する
最終行動方針:ゲームに優勝
備考:ジョシュアの名前をアイビス=ブレンだと思い込んでいる】
【グラキエース 搭乗機体:ネリー・ブレン(ブレンパワード)
パイロット状況:精神やや安定。放送の時刻が怖い
機体状況:現在補給中
現在位置:G-8水中補給ポイント
第一行動方針:アイビスを探す
最終行動方針:???
備考1:長距離のバイタルジャンプは機体のEN残量が十分(全体量の約半分以上)な時しか使用できず、最高でも隣のエリアまでしか飛べません
備考2:負の感情の吸収は続いていますが放送直後以外なら直に自分に向けられない限り支障はありません】
【時刻:20:00】
NEXT「青い翼、白い羽根」
BACK「休息」
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