157話A「判り合える心も 判り合えない心も」
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細長いスティック状の包装紙が破かれて、クリーム色の粉末がマグカップの底に降り積もった。
そこにこぽこぽと柔らかい水音を立てて、ポットからお湯が注がれていく。
200mlほどだろうか? 規定の量まで溜まったお湯を覗き込むと栗毛の少女はスプーンでゆっくりとかきまぜる。
途端に鼻先をくすぐる優しい匂いが湯気と共に立ち昇り、狭い医務室の中に満ちて行った。
男は背もたれのない丸い椅子に座ったまま、ぼんやりとそれを眺めていた。
混ざり具合を確かめて「よし」と小さく呟く声が耳に届く。
カリッと香ばしく揚がったフライドオニオンの顆粒がそこに加えられ、琥珀色の澄んだスープに小麦色が浮かび上がる。
コンソメ風味のオニオンスープ。彼女は出来上がったそれを差し出してきた。
「はい、どうぞ」
両の手で受け取る。「熱いから気をつけて」と付け加えた彼女の言葉を無視してほとんど一息に飲み干した。
実際問題として喉は渇いていた。だがそうしたのは何もそれだけが理由ではない。
熱の塊が喉を下っていき胃に収まっていくのを感じながら、願う。
――頼む。この痛いほどに渇いた喉のせいであってくれ、と。
まだオニオンスープの匂いが立ち込める医務室の空気。それを鼻と口で吸い込み、肺に溜め込む。
熱いスープに軽い火傷を負った舌がヒリヒリと痛む。その痛みと引き換えに潤った喉で声を出そうとしてみた。
肺から搾り出されていく空気。だが、鳴ったのは擦れ声とも言えないほどに擦れた『音』だった。
――クソッ!! 駄目か。
椅子に腰掛けたまま猫背に背中を丸めて、前傾姿勢に俯く男。その髪の下で口元だけが正体なく笑う。
それは自嘲だったのだろう。自嘲だったのだと思う。だが、音にならない笑いは自嘲にすらなりはしない。
ふっと気づくと目の前に右腕が差し出されていた。釣られて視線を上げていくと、前かがみに覗き込む顔と目が合った。
その顔が笑って言う。
「宇都宮比瑪。私の名前。よろしくね」
「兜甲児だ。その、すまねぇな。投げちまって。あんたは?」
ばつの悪そうな声に振り向くと威勢の良さそうな少年が、目に留まった。
反射的に名前を言おうとしたが、やはり声は出ず虚しく口だけが動いた。思わず溜息が漏れる。
「やっぱり……あなた、声が出ないのね」
その仕草に察したのだろう、ヒメの声だった。頷く。
――何かないのか? ここは医務室だろ? 薬とか、何か。
同時に口が動いていた。
それに気づいて苛立つ。声が出ない。話すことが出来ない。言いたいことが伝わらない。
それなのに気づくとつい口を動かしている。声もでないのに。意味もなく、だ。
それらは人を苛立たせるのに十分な力を持っていた。思わず唇噛み締めた。
視線を落とした自分に合わせてしゃがみ込み、覗き込んだヒメが言う。
「そう。でも大丈夫。きっと何とかなるわ。だから諦めないで」
不思議な温かみのある声の持ち主だった。
少し考え、ちょっと悩み、大きな溜息一つで気持ちを切り替えた気になってみる。
その後で、紙を持ち、ペンを握り、口を動かす仕草でそれらを要求した。
ジッと見ていた甲児が理解したのだろう「ちょっと待ってろ」と言い残して医務室を後にする。
「ほら、大丈夫。声が出なくてもあなたの言いたいことを分かってくれる人達が、ここにはいるから。ね」
微笑みに釣られて思わず笑う。そうした後で、思い通りにならないおも歯がゆさが心を占める。
不意に込み上げてきた『何やってるんだろうな、俺は』という思いをどうすることも出来なった。
◆
狭い和室を沈黙が満たしている。一脚のちゃぶ台を挟み座り込むのは二人の男。
一人はゆったりと落ち着いた所作で急須を手元に引き寄せて、湯飲みに茶を注いでいる。そして、もう一人は――
――話したいことがあるなら話してみればどうだ?
その言葉を反芻していた。
話したいことならある。だが、それは話せることのなのか? いや、話さなければならないことだというのはわかる。
ほっておいてもいつアムロと合流してもおかしくない状態にあるのだ。
それまでに話しておくべきだとは思う。だけども、大丈夫なのだろうか?
アムロ=レイがニュータイプと呼ばれる人間であること。それをこのニュータイプを目の敵にする男に話して大丈夫なのだろうか?
「ガロード」
難しい顔で手にした湯飲みを覗き込んでいた顔が、呼ばれてハッと持ち上がる。
名前を呼んだ目の前の男が、茶の湯を啜りながら気楽な様子で眺めていた。
「茶が冷めるぞ」
言われて慌てて口につける。熱い煎茶が喉を下り胃に納まっていくのを感じた。
言うか言わまいか悩む理由は他にもある。この男の態度が違いすぎるのだ。
ティファを狙い、何度もフリーデンを手こずらせてきたはずのこの男の姿。それは狡猾で冷たいもののはずだった。
だがしかし、ここで甲児や比瑪に見せている姿はそれと大きく異なる。
何というか、何か悪いものでも食べたのではないかと言いたくなるようなその姿は――
「おぉ、茶柱が」
――ともすれば同一人物かと疑いたくなる、えぇそりゃもう本当に。心の底から。
というか外見と過去の記憶の一致がなければ多分疑っていた。それほどに違うのだ。
だからこそ悩む。
以前のシャギア相手ならば語れるはずがない。
しかし、今のシャギアならば、この甲児が信頼を寄せるこのシャギアにならば話してみてもいいのではないか?
そう思えてくるから不思議であり、悩むのだ。
だが、その一方で騙されるな、と叫ぶ声がある。これは狡猾な奴らの罠なのだと言う声が振り払いきれない。
その声を消し去って無条件で信用できるほど、二人の溝は浅くはない。
だからだろう。ガロードは、その中途半端な心構えのまま話を切り出してしまうこととなった。
「シャギア……」
◇
「シャギア……俺には今あんたを完全に信用することは出来ない。だから聞かせてくれ。
もし……もしも、ここにニュータイプがいたらあんたら兄弟はどうする? やっぱり戦うのか? それとも……」
湯飲みを両の手で支え、その深緑の水面に落とし込んでいた目線。それが不意に持ち上がり、その思い悩んだ表情のまま問いかけてきた。
それに対し、シャギアは考え込む表情を作りながらその背景へと手を伸ばしていた。
ここであえて、自分ら兄弟における禁句とでも言うべきニュータイプを話題に持ち出す必然性はない。
だがそれは、ここにニュータイプと呼称される者がいなければの話だ。
それをあえて話題に持ち出したガロードの背景はここでニュータイプとの接触を持ったこと、と考えるのが自然。
となると次なる疑問は、それは誰なのか、ということになる。
ホンの数分前の記憶を辿る。
これまでにガロードとの接触があり、且つ自分との面識のない生存者は3人――クインシィ、ブンドル、アムロ。そしてアムロが探していると言うアイビス。
無論、ガロードが名前を伏せていると言う可能性も否定できないが、一先ずの候補としてはこの4人。
では、だ。ではここでガロードの問いに何と答えるべきか?
YESか? 論外だ。それを口にすれば二度とこの話題をガロードが持ち出さないどころか、下手をすれば敵対も有り得る。
それならば、NOか? 確かにYESよりは数段マシな選択。上手く行けばニュータイプの特定も可能かもしれない。だがしかし、これも論外だ。
目を見れば分かる。ガロードがこちらを信用しきれないと言ってきたことは、おそらく事実。
無理もない。我らの間柄を考えればそれは当然とも言える。それに自分とてガロードを信用しきっている訳ではない。
その状態ではYESと答えても信用はすまい。むしろかえって疑いを深める可能性がある。騙すつもりなのでないか、とな。
ならばどう返せばいいのか? 答えは出ている。
「仮にだ、ガロード。仮に私がここでニュータイプと争うつもりはない、と答えたところでお前はそれを信用できるのか?」
グッと詰まった顔が考え込み、「信用……できないと思う」と返してきた。
ほぼ予想通りの答え「ならば」と口を開けようとして「だけど」とガロードが言葉を重ねた。
「だけど……俺には難しいことはわからないけど、ニュータイプもただの人間だって、そんな言葉は幻想だってあんたら兄弟も気づいているんじゃないのか?
人の声が聞こえる。フラッシュシステムを扱える。たったそれだけの違いじゃないか。それなのに何でそんなにニュータイプを憎む」
「たったそれだけの違いだとッ!?」
思わず気色ばんだその叫びは、自身の内奥へと許可なく一歩踏み込んだ者、強引に過去の傷口を広げた者に対する警告の声だった。
一瞬感情的になり、失態を犯した自分を自覚すると同時に、腹の底からドロドロと込み上げてくる怨念を感じ取る。
理屈ではない。これは拒絶だ。これ以上触れてくれるなと言う心の声だ。
その心を落ち着かせるために一つ大きく息を吐く。それで気持ちを切り替えたつもりなって、落ち着き払った仮面をかぶり直す。
「そうだ。その通りだ、ガロード=ラン。
我ら兄弟と奴らの違いはフラッシュシステムに適応しているかどうか、兄弟以外にも感応能力があるか否か、たったそれだけの違いだ」
「なら何で!」
「黙れッッ!!」
だが、一度開いた傷口は簡単には塞がらない。溢れ出す血のようにシャギアは自身の意思に反して話し始めていた。
「貴様に我ら兄弟の何が判る? 貴様の言う『たったそれだけの違い』で運命を歪められたのだ。
その違いを『たったそれだけ』などとは、よくも言えたものだ」
「だからってニュータイプ全てを怨むなんて間違ってる!!」
「ガロード=ラン、何の力も持たぬお前には判るまい……いや、こう言えば少しは判るか?
ニュータイプと言うものの存在が、ニュータイプと言う幻想が我ら兄弟の運命を捻じ曲げたのだ。
私だけならばいざ知らず、私の弟の運命までもだ」
「でも……」
「ガロード、お前はティファ=アディールに手を出した者を許しはしまい。それと同じなのだよ。
私はそれと同じ理由で、私とオルバの運命を歪めた者達を決して許しはしない。ただそれだけのことだ」
「それでも……」
「ならば、聞く。今お前は、お前の運命を捻じ曲げたあのノイ・レジセイアという存在に何を感じている? 何をしようとしている?
仲間を、多くの人間を殺したその存在を許せない。打ち滅ぼし、この捻じ曲げられた運命から逃れてみせる。違うか? 違うまい」
「……」
「それと何も変わらないのだ。ニュータイプという存在が、幻想が世界に存在する限り、我らはこの運命から、過去から逃れられない。
だから抗い、抵抗する。そして、ノイ・レジセイア、私と私の弟の運命を捻じ曲げたそのもう一つの存在も、許しはしない」
「……」
「それにはお前の力も必要だ。何もティファ=アディールの敵となれと言っているのではない。
元の世界に戻るまででいい……私の元へ来い。私の力になれ、ガロード=ラン」
どこまでが本心で、どこからが作為によるものか。それはシャギア自身にも判別はつかなかった。
ただ、その胸の内を曝け出す恥ずべき行為の途中から、冷静な意図が介入し、最後の言葉へと帰結させたことだけは確かだった。
いや、見栄がそう思わせているだけ、そんな気もしていた。
だが、何にせよガロードを懐柔する為に一つの賭けに出たことは間違いなく、その結果は目の前の少年に委ねられている。
眉間に皺が寄り瞳をきつく閉じて、より苦渋の色を深くしたその顔が悩み、そして搾り出すような声で言った。
「……ごめん。やっぱり俺には手放しであんたらを信用することなんか出来ない」
そこで一度言葉を区切った少年が顔を上げ、迷いを残しつつも強い光を瞳に宿しつつ「だから」と続けた。
「だからシャギア、お前と一緒に行ってお前を見張ってやる。下手なことしでかせば背中から撃つからな。覚悟しろよ」
その返答に「それでいい」とほのかに笑ったその瞬間、腹の底に響き渡る重低音がナデシコを揺らした。
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