174話A「心の天秤」
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茫然自失。
その四文字こそ、今のシャギアを表すのに最も相応しいだろう。
ヴァイクランのコックピットの中、誰に向けるというわけでもなくシャギアは疑問の言葉を脳内で繰り返す。
――私は今、誰を撃った? 誰が死んだ?
ナデシコの格納庫内には、シャギアを含めて五人いたはずだ。シャギア、ガロード、テニア、比瑪、名も知らぬギターの男。
それが今では二人いなくなり三人になってしまっている。
テニアはベルゲルミルに乗り、ナデシコを飛び出した。
ならばいないのは、比瑪ということになる。比瑪が、いなくなっている。
ならばさっきシャギアが撃ったのは、間違いなく比瑪なのだろう。
自分が比瑪の命を――意図したわけではないにしろ、奪ってしまった。
そのことをはっきりと自覚した瞬間、全身に何とも形容し難い悪寒が走り、纏まろうとしていた思考が霧散する。
比瑪の喪失がそのまま感覚の欠如に繋がり、まるで世界がひっくり返ってしまったかのような眩暈さえ覚える。
ショックを受ける自分がいるのと同時に、比瑪を殺してしまったことで、ここまで心乱されることになるとは思ってもいなかったと、ショックを受けたという事実そのものに同程度の衝撃があった。
そうだろう。シャギア自身、自分がここまで不安定になっているとは想定の範囲から大きく外れていた。
オルバにしろ、比瑪にしろ、失ってから初めて自分がどれほど心の拠り所にしていたのかに気付かされる。
生まれついての仲であったオルバならまだしも、出会ってから一日と経っていない比瑪までもが、こんなにもシャギアの心に入り込んでいた。
それだけナデシコで過ごした時間が特別なものだったということなのだろうか。
楽しすぎた。そう、ナデシコは――シャギアにとって楽しすぎる場所だった。
もしかすると、シャギアとオルバが何の力も持たず、それゆえに世界を恨むことさえなければ在り得ていたかも知れない光景。
「おい、シャギア! しっかりしろ!」
「ガロード……」
「ぼんやりしてる暇なんてないんだ。斬りかかってきた機体……戦ったんだから分かるだろ。
このまま放っておいたら、やられるのはこっちだ」
「ガロード。……ナデシコを、お前に任せる。クインシィという女も、そこのギターの男も、私は殆ど面識がない。
纏め上げるのならばお前が適任だ。今更私がナデシコを率いる根拠も、随分薄くなっている。
これはオルバが交渉人――ロジャー=スミスから得た情報だが、Jアークはナデシコと直接話をしたいとのことだ。
場所はE−3、時間は次の放送後。おそらくは、この戦いの一番の山場となるだろう。頼むぞ、ガロード」
「おい……何言ってるんだよ! ナデシコはあんたたちの艦じゃなかったのか、俺じゃ意味がないんだよ!」
「私には……やらねばならないことが出来た。ようやく気付いたのだよ。
――私の手は、私が思うよりもずっと小さかったようだ。何もかも全て掴むことなど出来ない。大事なものを取り零してしまうとね」
想定外の事態に陥り、自分でも自分が分からず、何をすればいいのかなどそれ以上に分からない今。
それでもなお、唯一つだけ、やらなければならないとはっきりしていることがあった。
こうなってしまった全ての元凶――フェステニア=ミューズを、この手で殺す。
オルバと比瑪を失って欠けてしまった心の空洞が、殺意というどす黒い意思に満たされていく。
背筋が凍るほどに冷たいそれがシャギアの頭をクールダウンし、冷静沈着なシャギア=フロストが甦る。
そうだ。昔からシャギア=フロストという男は、憎悪を原動力とし世界に復讐を果たしてきた。
何と言うことはない。ただ、戻るだけなのだ。
「ガロード……やはり私たちは、共に歩めない運命なのかもしれないな」
かつて何度も戦った宿敵の顔を、改めてまじまじと眺める。
ガロードには、シャギアの真似できない眩しさがあった。
真似ようなどとは思ったことはない。そんなものは必要無かったからだ。
だが今は、その愚直とも言えるひたむきさが、少しだけ羨ましかった。
本当は、あの頃から思い焦がれていたのかもしれない。無意識の内に羨望は積み重ねられていたのかもしれない。
この場所に連れられ、そして甲児たちと出会い、彼らにガロードと似た何かを感じた。
自分もまた、そうなることが出来るのかもしれないと思ってしまったのかもしれない。
オルバが何度も困惑していたシャギアの奇行――あれは、元々のシャギアの人格を知っていたからこそ、奇行と見えたものだ。
実際、甲児や比瑪、テニアなどは、何だか馬鹿みたいなところもあるけれど、面白くて信頼できる人物だと、そう捉えていた。
カテゴリーFと評される力さえなければ、世界を恨むことさえなければ、あるいは有していたかも知れない人格が、ナデシコでのシャギアのそれだった。
だがしかし、それはあくまでも仮定。IFの話に過ぎない。
結局、シャギアはシャギア=フロストであり、それ以上でもそれ以下でもなかったという、それだけの話だ。
ガロードが期待した「本当のシャギア」などというものはただの虚像であり、そのメッキはオルバと比瑪の死により剥げてしまっただけなのだ。
シャギア自身は何も変わってなどおらず、今また、復讐の対象を変えてそれを果たそうとしている。
『おい。格好つけてるんじゃねぇよ』
――だと言うのに、何故、私のことなどろくに知らないはずのお前が、そんなことを言う?
『確かに俺はあんたのことなんかこれっぽっちも知らないさ。だがな、あんたは俺を助けてくれたし、比瑪の仲間だった。
俺にとっちゃそれで十分なんだよ――俺の歌を、聞かせるにはなあっ!
……比瑪が死んじまって、悲しいのが自分だけだなんて思うな。仇を討とうだなんて、そんな馬鹿げたことはもっと考えるんじゃねえ。
そんな下らないことで頭を悩ませるくらいなら……俺の歌を、聴けぇぇぇぇぇっ!』
男はギターをかき鳴らし、唄った。力強く唄った。
それは別れを謳う歌。だがしかし、悲哀とは遠い歌だった。
まだ自分の声を取り戻すことが出来ず、ナデシコで得た新しい声もまた、経験値の不足からかところどころでミスも目立つ。
それでもなお、男の歌には力があった。小手先の技術などでは到底込めることが出来ない熱意や情熱――それがあった。
「やめろ! ……何だ、貴様たちは、この私に……!」
いったい何をさせたいんだ。
私はそんなことをして欲しいのではない。ただ、黙って私の言うことに頷いてくれればそれが最善だろう。
袂を分かとうとしている相手にこんなことをして、何の得がある? 何になるというのだ。
シャギアの呟きを受け、演奏と歌がしばし中断される。
『俺はあんたのことなんか、何も分からない。だけどよ……そんなに泣きそうな声をしている奴を、そのまま放っておくわけにはいかないってだけだ。
俺は比瑪の優しさに救われた。俺はあいつみたいに優しくはないけどよ、きっと比瑪も、あんたを慰めてやると思ったのさ』
男に泣きそうな声だと言われて、初めてシャギアは自らの目もとに手を伸ばす。
濡れていた。涙を落とすほどではない。だが、目尻を濡らすほどには、温かい液体が染み出ていた。
涙。
自分がまだ、涙を流せる人間だったとは思わなかったと、そのこと自体に軽い衝撃を覚える。
もしかすると、自分は本当に変わることが出来たのではないかと、期待をしてしまう。
だが――期待すればするほど、落胆もまた大きくなると知っている。
だから期待など捨てると、そう決めた。そのはずだったのに。
「……俺はまだ、シャギアのことを信用出来たわけじゃない。だけどそれはきっと、俺がシャギアのことを何も分かってないからなんだ。
どうしても行くっていうんなら、俺が信用できるだけの証拠を見せてから行けよ、シャギア!」
「証拠など何もない。貴様が知っているシャギア=フロスト像は、なんら間違ってはいない!」
「俺が知ってるシャギアは比瑪が言ってたみたいに和気藹々とするような奴じゃないし、そんな泣きそうな顔もしない!
そんなの俺の知らないシャギア=フロストだ! ナデシコを捨てるだなんて、そんなこと言うなよ。
それは比瑪や甲児を裏切るってことなんだぞ!」
「貴様に……! 貴様に何が分かる! オルバを、半身を失った私の怒りと悲しみが分かるというのか!
オルバの仇討ちとナデシコと、どちらを選ぶかなど今更考えるまでもない」
「なら、甲児や比瑪たちの前で見せてた姿は全部演技だって言うのかよ! ――ふざけるなよ!」
「言いたいことは、それだけか? ならば私は行く。フェステニア=ミューズを殺しにな。
……ナデシコは任せたぞ。私たちをあれほど苦しめたお前だからこそ、頼むのだ」
「もう、俺が何を言っても……行くつもりなんだな」
「ああ」
「なら絶対に帰ってくるんだ。お前が何を言ったとしても、ナデシコは俺たちの艦じゃない。お前たちの艦だ。
それまでは、俺が代わりに守ってみせる。だから……必ず戻ってこい」
そんな言葉をかけられてしまえば、淡い期待を捨てることさえ難しくなってしまうではないか。
誰よりも、ガロードにだけは言ってもらいたくなかった。
自分の本質を知っている人間だった。
甲児や比瑪のように、一日足らずの付き合いだったならばそれは勘違いだったと言葉を正すことも出来ただろう。
しかしガロードとの因縁は、勘違いだったで済ませるにはあまりにも深すぎる。
「私はいったい、何をすればいいのだろうな……」
極自然に、その呟きは生まれた。
これだけ心が揺れようとも――それでもなお、譲れないものはあるという予感があった。
男の歌がいくら心に響こうと、ガロードの声がいくら心を動かそうとも、その心はやはり、オルバという存在に縛られている。
今この瞬間でさえ、オルバを確実に生き返らせることが出来るのならば、即座に掌を返しナデシコを墜とすことでさえ厭わないだろう。
それほどまでにフロスト兄弟の肉親への愛は強かった。当り前の話、仕方の無い話だろう。
これまでの人生、喜怒哀楽の全てを共有してきた唯一の存在が、シャギアにとってのオルバなのだから。
むしろ、オルバと並ぶほどに心中を占めるナデシコでの仲間たちとのひと時のほうが例外過ぎるのだ。
いくら濃密だったとはいえ、一日足らずの記憶が、半生と同等の価値を持ってしまうということが信じられなかった。
これは自分の弱さになるのだろうか。それさえも、何もかも、分からないことばかりだ。
ただ唯一分かる、しなければいけないこと――テニアの殺害のために、シャギアはヴァイクランを発進させる。
ナデシコから出てすぐに、テニアの乗るベルゲルミルを捕捉した。
そう離れてはないビルの屋上でナデシコを襲った機体と向かい合ったまま、戦う様子も逃げ出す様子もなかった。
元々グルだったのだろうか、などと考えることもなくガンスレイヴの照準をベルゲルミルに合わせる。
この引き金を引けば、自分を苦しめた存在、フェステニア=ミューズを確実にこの世から消失させることが出来る。
しかしその引き金が引かれることはなかった。
その前に、何者かの攻撃がヴァイクランを襲う。
念動フィールドにかき消されたその攻撃を、シャギアは知っている。
かつて一戦交わした、黒いガンダム――!
『よう、元気だったか? ――ちょいと、遊んでもらうぜ』
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