33話A「The two negotiators」
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「…狂ってる」
広大な草原の只中で、リリーナ・ドーリアンは目前に鎮座する機体を見詰めながら呟いた。
一体、ここはどこなのか。先程この目で見た、あの化け物は。そして、あの不思議な少女は何者なのか。
突きつけられた疑問はあまりに多く、そしてその答えを知る術を彼女は持たない。
一つだけ解っている事は、自分が掲げる理想とはまるで正反対の『殺し合い』に巻き込まれてしまったということだけ。
完全平和主義。
有史以来―――否、それよりも以前から人々が望み続け、その生活の場を宇宙にまで広げた今なお迎える事の出来ずにいる世界。
それがかつて無慈悲な弾圧の前に滅び去った国サンクキングダムと、そして、その血を引く彼女の掲げる理想だった。
だが、今自分の置かれている状況はなんなのか。
気がつけば見知らぬ部屋に押し込まれていて、わけもわからない内に爆弾付きの首輪を嵌められ、殺し合いを強要されている、この現実は。
―――狂ってる。
先程発した言葉を、胸の中でもう一度呟く。こんな殺し合い、認められるわけが無い。
眼前に鎮座する戦闘機―――自らに支給された機体を、リリーナは睨み付ける。
彼女はここに降下してすぐ、機体から降りた。マニュアルに目を通してすらいない。
完全平和主義を掲げる彼女にとって、兵器は忌むべきものであり、そんなものに身を預けているのが耐えられなかったのだ。
アルフィミィと名乗ったあの少女は、参加者一人一人に機動兵器を支給すると言っていた。
つまりは、私にこの戦闘機が支給されたように、他の参加者にもこのような戦闘機が―――あるいは、モビルスーツが支給されている可能性もある。
そんな状況で機体を捨てるという行為が、どんな結果をもたらすか。勿論彼女にわからないわけはない。
怖くないと言えば、嘘になる。
服の胸元を握り締め、リリーナはゆっくりと息を吐いた。
機体を捨てる事で、自分の死ぬ確率は格段に高くなる。だが、それでも彼女は自分の中に流れる血に刻まれた想い故に、操縦桿を握る事を拒んだのだ。
そして、同時に彼女は期待していた。いや、それは願望と呼ぶ方がふさわしいだろうか。
彼の姿を見たのは、ほんの一瞬だった。
参加者全員の集められたあの部屋で、遠目にかすかに見えた後ろ姿は、すぐに他の参加者の影へと隠れてしまいその姿を追うことはかなわなかった。
だが、彼女は確かに目にしたのだ。たとえほんの一瞬であろうとも、見紛うわけはない。
自分を殺すと言った、空の彼方からやってきたあの少年の姿を。
その時、じっと見詰めていた戦闘機の遥か向こうに、僅かに揺れ動く黒い影を見つけ、リリーナはその身を強張らせた。
―――他の参加者だ。
無意識に、リリーナは唾を飲み込んだ。
身勝手に震えだす足を歯を食い縛る事で叱咤して、リリーナは遠くに霞む他の参加者の影へと足を踏み出す。
戦闘機の脇を通り過ぎ、彼方の参加者と自分を遮るものが無くなったところで、彼女は立ち止まった。
ゆっくりと、だが確実に近づいてくる参加者の影を見据え、毅然と背筋を伸ばしてその接近を待つ。
彼女は、あの参加者に自らの完全平和主義を説くつもりでいた。
賛同が得られるかどうかはわからない。
だけど、一人でも多くの参加者に命を奪い合う事の虚しさを、互いに争い合う事の愚かさを伝える事が、自らに課せられた使命なのだ。
そう信じて、彼女はじっと黒い影の接近をじっと待ち続ける。
だが、もしあの参加者がゲームに乗っていたら。
もしあの参加者が、人の命を奪う事になんら躊躇いを覚えないような相手だったとしたら。
否応無く湧き上がる不安を押し殺し、その不安を振り切るかのように、リリーナはぽつりと呟いた。
「ヒイロ…。早く私を殺しにいらっしゃい。私が他の誰かに殺される、その前に…」
その言葉とは裏腹に、彼女は想い焦がれていた。
あの無口で無愛想な少年が、ゲームに乗った参加者に襲われる自分の前に颯爽と現れ、救い出してくれる。
それは現実から目を背けた夢物語であったが、果たして彼女の思い描くその陳腐なシナリオを、一体誰が笑えるのか。
この狂った殺戮の宴の中、その身一つで抗う事を決めた少女のささやかで力強い拠り所を嘲る事の出来る者など、
この世界には誰一人として存在しないのだ。
不安と期待。二つが複雑に絡まりあう胸中を持て余しながら、それでも少女は自らへと歩みを進める黒い機体から目を逸らすことなく、じっと待ち続ける。

「私はリリーナ・ピースクラフト。争うつもりはありません。見ての通り、機体からも降りています。話を聞いてもらませんか?」
やがてこちらへと歩み寄ってきた黒い機体へ向けて、リリーナは毅然とした態度で、
ドーリアンではなく、完全平和主義を背負うピースクラフトの―――今の自分が名乗るべき名前を告げた。
その声が届いたのか否か、黒い機体の歩みが止まった。その場にじっと佇んだまま、無言で静かにこちらを見下ろしている。
黒い機体との距離は、およそ10M強。だが、数十Mを越すであろう巨体の前には、その程度の距離に意味など無い。
ほんの数歩、足を踏み出す。あの機体の主が彼女を殺そうとしたならば、たったそれだけで事足りるのだ。
黒い機体からの返答は無い。
実際のところ、彼女が黒い機体へと呼びかけてから未だ一分も経過していない。だが、今の彼女にとってそれだけの僅かな時間は実際の何倍に感じられた。
そして、胸の奥へと押し込んだ恐怖心によって増幅された時間の流れは、彼女が心に築き上げた決意の城壁に容易く亀裂を生じさせる。
(―――ヒイロ)
それでもリリーナは漆黒の機体を見詰めたまま、想い人の名を支えに怯えを隠して自身の何倍にもなる巨体を前に毅然と立ち続けた。
「交渉とは、互いが対等の立場にあって初めて成立するものだ。意味も無く自らの不利を招くような行動は、相手につけこまれることになる」
やがて黒い機体から、落ち着いた男性の声が降り注ぐ。
どうやら、問答無用で襲い掛かってくるような相手ではなかったようだ。安堵に胸を撫で下ろし、再び黒い機体へと声を張り上げる。
「機体から降りると言う事がどれだけ危険な事かは重々承知しているつもりです。
ですが、たとえどのような状況であろうと、武力を誇示した状態で対話をするのは私の望むところではありません」
「…君は、勇気と蛮勇は別物であるということを知るべきだな。その精神は尊敬に値するが、法の秩序から解き放たれた今の状況ではなんの力も無い。
仮に私がこの殺し合いに乗っていれば、その時点で君の信念は命と共に失われる事になる」
黒い機体が、一歩足を踏み出した。
リリーナの全身を戦慄が駆ける。背中を冷たい汗が伝っていくのを自覚した。
「あの女性が殺される様を見ていなかったわけではあるまい。知っているかね?人間とは、己の利になる事の為ならばどんな行いも出来るものだ。
金、権力、女。その対象は数あれど、それらはすべて命あってこそ享受出来る物だ。
その命を失うかどうかの瀬戸際に、君の言う事に耳を傾ける余裕がある人間がそう多いとは思えないが?」
降り注ぐ声と、圧倒的な威圧感を伴ってこちらを見下ろす黒い巨体の姿に反射的に後ずさりしそうになる身体を押さえつけ、
バイザーに覆われた巨人の顔を見詰め返した。
「…それでも、私は人を信じます。それは私にとって、命をかけるに値する理由なのです」
揺るぐ事の無い決意を宿し、リリーナは言い放つ。黒い機体はそれ以上近づいてこなかった。
「…やれやれ。見かけによらず強情なお嬢さんだ」
ややあって、黒い機体から溜息交じりの声が発せられる。
直後、黒い巨人のコクピットが開け放たれた。その中から、
前へと倒れるように開いたコクピットの装甲の上へと全身を黒いスーツに包んだ若い男性が姿を見せる。
「そちらが譲らないというのであれば、こちらから折れよう。これで私と君の立場は対等だ」
襟に手をやって乱れた衣服を軽く直し、黒衣の紳士はそう言ってリリーナに向き直った。
「貴方は…」
その人物に、リリーナは覚えがあった。
あの参加者全員の集められた部屋で、ただ一人真っ向から主催者達に質問をぶつけた、あの人物。
ゲームのルールを説明した少女は、確か彼の事をこう呼んでいた。
「ネゴシエイター…交渉人」
「よくご存知で」
膝を突いた機体のコクピットからひらりと地面へ飛び降りると、ネゴシエイターは芝居がかった仕草で胸元に手を添え、高らかに言い放った。
「改めて名乗らせて貰おう。私の名はロジャー・スミス。知っての通り、ネゴシエイターを生業としている。では、話を伺おうか、お嬢さん」




ネゴシエイター、ロジャー・スミスは、銃を持たない主義だ。
凶悪な犯罪者との交渉を行うその職業において、その主義は異端と言わざるを得ない。
事実、彼に恨みを持つ人間の数は両の指では到底足りるものではない。命の危険に晒された事も、数え切れないほどにある。
だが、彼はそれでも銃を持つ事をしなかった。
それは、彼が根っからの"ネゴシエイター"であることの証明である。
彼の仕事はあくまで交渉であり、彼にとっての武器は無粋な鉛弾ではなく、その弁舌なのだ。
尤も、ネゴシエイションにすら値しない相手には鉛弾とは比べるべくも無い巨大な鉛の拳を叩き込んだ事は多々あるが。
だが、それでも彼は人の命を奪った事は無い。
無意味に人の命を奪うような真似は断じてしない。それがロジャー・スミスの法であり、そのルールが彼に銃を持たせる事をしなかった。
―――その彼をして殺し合いを迷わせるほどに、今彼らが置かれている状況は狂っているのだ。
ノイ=レジセイア、といったか。あの主催者は。
この狂った殺し合いに巻き込まれることとなった元凶たる、あの巨大な化け物の姿を思い出す。
そして、あの空間で見せ付けられた光景をロジャーは振り返った。
見ただけで嫌悪を催すような凶暴性を称える外見とは裏腹に、
彼―――と言って良いのかどうかはわからないが―――は実に人の心理というものを理解していた。
いきなり殺し合いをしろ、と言われて素直に頷くような人間は、それこそ快楽殺人者でもなければいるはずはない。
それを彼らは、こちらの言い分を一切聞く事もせずに参加者全員の目の前であっさりと一人の人間を殺して見せた。
自分達の力を示し、そして同時に相手を屈服させるにはこれ以上ないデモンストレーションだった。
あのような光景を、死という生物の持つ最大級の恐怖を唐突に、
そしてああも理不尽に突きつけられては、自らの保身の為にゲームに乗ってしまう者も出てくるだろう。
意味も無く人の命を奪う事を、彼はけして是としない。だが、それは厳然たる秩序が存在していればこその話だ。
今自分がいるこの世界には、秩序も法律も存在しない。あるのはただ、見ず知らずの人間と殺し合いをしろという、イカれた命令だけ。
そのような状況下で、見ず知らずの不特定多数の誰かがこちらを殺そうと向かってくる中で、果たしてその主義を掲げたまま生き延びる事が出来るのか。
正当防衛、という法律がある。
明確な殺意を持って襲ってくる相手を撃退する事は、罪に問われる事はない。
そして、緊急を迫られる場面において自らの命を守るために他の誰かを犠牲にする事は、心理的、客観的に見てどうかという問題を捨て置けば、
これも緊急避難という法によって許されるものだ。
他人を蹴落とし、このゲームの優勝を目指すことは、法的になんら問題はない―――。
そこまで考えて、ロジャーは一人苦笑を漏らした。
法も秩序も無いといっておきながら、
その失われたはずの法に縋って自らを正当化しようとする自分の滑稽さに唇を歪めて自嘲すると、ロジャーは支給された機体を発進させた。
人を殺す事は、彼の主義に反する。だが、だからといって座してただ殺されるのを待つほど、自分は消極的ではない。
どの道、このようなところで死を迎え入れるほど、彼は人生に飽いてはいないのだ。
そうして、生き残るために戦うことを―――人を殺す事を辞さない覚悟を固めていた彼が最初に出会った人物は―――。
「私はリリーナ・ピースクラフト。争うつもりはありません。見ての通り、機体からも降りています。話を聞いてもらませんか?」
―――あろうことか機体を降り、その身を曝け出して真っ向から自分へと対話を求めてきたのだ。
自らの危険も省みず、ゲームに乗っているかどうかもわからない自分を前にその身一つで対話を求めるその少女の姿に、
何故だかロジャーは僅かな苛立ちを覚えた。
皮肉めいた言い回しで機体の足を踏み出しても、少女は一歩も退こうとはしない。
苛立ちを抱えたまま、ロジャーは機体を降りて少女の前へと姿を現せた。対話を求める相手には、同じ立場で接する。それが彼の流儀だからだ。

そうして互いに生身を見せ合い向き合うと、リリーナと名乗った少女はゆっくりと、そして真摯に語り始めた。
自らの掲げる理想、完全平和主義。
そして、その理想にしたがって武力を掲げる事なく、対話によってこの殺し合いを止めると言うその信念を。
馬鹿げている。話を聞きながら、ロジャーはそう思った。
薄氷の上を素足で歩くようなものだ。そのような事が実現できるわけがない。
恐らくは、冷静に現状を見詰め、生き残るためにゲームを勝ち抜く事を選んだ参加者もいることだろう。
そのような相手に、そんな理想論など通じるはずは無いだろう。
それどころか、恐怖に囚われ、殺される前に殺せという短絡的な思考に行き着いた哀れな参加者と出会うだけでも、
彼女の想いは容易く蹂躙され、打ち砕かれるのだ。
だというのに。
そのような絵空事を大真面目に語るリリーナの姿に、ロジャーは何故か、眩しさのようなものを感じていた。
そして、同時に気付く。自らの心に巣食う、苛立ちの正体を。
法を遵守する事に逆らう犯罪者を相手に言葉だけを武器に立ち向かうネゴシエイターでありながら、
その誇りを捨て、容易く力に頼る事を選んでしまった自分に対し、力を否定して、自らの理想を信じてその身一つで抗おうとする彼女の姿に、
本来の自分の―――未だ荒削りでありながら、誠意を持って言葉を紡ぐネゴシエイターの姿を、ロジャーは確かに垣間見たのだ。
(…成る程。つまり、私は、この少女に嫉妬していたと言うわけだ)
組んでいた腕を解き、右の掌を額に押し当てる。
思い出せロジャー・スミス。お前は、誰だ?お前は、一体なんだった?
(そうだ。私は―――)
記憶を失った街、パラダイムシティ。
国家ではなく、企業が―――自らの利益を求め、自己に都合の悪い事は改竄することも厭わない者が支配する街で、自分は一体何を成していたのか。
(―――私は、誰にも縛られず、自らのルールと正義に従い生きる、ネゴシエイターではなかったのか!)
気がつけば、リリーナの言葉は止まっていた。切れ長の瞳が、じっとロジャーを見詰めている。返答は?その瞳が、無言でロジャーにそう語りかけていた。
額に当てていた手を下ろし、ロジャーの黒い瞳が真っ直ぐにリリーナの瞳を射抜く。返答は、もう決まっていた。
「解りました。貴方の依頼、受けましょう」
「…依頼?」
それまで無言であった黒衣の紳士が発した予想外の言葉に、眉を潜めたリリーナが鸚鵡返しに聞き返した。
そんな様子に構うことなく、ロジャーは続く言葉を紡ぎだす。
「依頼内容は、このゲームの平和的解決。交渉相手は、主催者及びゲームに乗った参加者達。報酬は―――」
「待ってください!私は貴方に依頼するつもりなど…それに、報酬として渡せるようなものなんか、何も持っていません!」
「ご安心したまえ。報酬なら、既に受け取っている」
自身の言葉を遮って叫んだリリーナに、ロジャーはかすかな笑みを唇に貼り付けて再び芝居がかった仕草で胸に手を添える。
「君は私の誇りを思い出させてくれた。それは、どんな財宝にも勝る報酬だ。私にとって、命をかけるだけの理由に値する」
思いがけない言葉に呆気に取られるリリーナの様子に笑みを深め、ロジャーはその背後の空へと視線を移した。
そのままリリーナに歩み寄り、肩に手をおくと庇うようにしてロジャーはその身を前に出す。
「では、ここから先は私の仕事だ。下がっていたまえ、リリーナ嬢」
ロジャーの言葉の意味を理解できず、リリーナは眉間に皺を寄せ、ロジャーが見詰める方向へと目を向ける。
その瞳に映ったのは、こちらへと接近してくる一機の紫色をした重厚な機体の姿だった。


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